納得していただくということ
3.Noという場合
相手の力になりたいのはやまやまでも、どうしても、応じられないことがあります。“営業は、Noとは言えないんだよ!”とおっしゃる方もいらっしゃいますが、やはり遵守しなければならない法やルールはあります。だからと言って、“申し訳ありませんが、それは致しかねます”だけで終わってしまっては、言われた相手は途方に暮れてしまいますね。そんな時、いくらかでもコミュニケーションの工夫で、ご納得いただくことはできないでしょうか?
車がないと生活できない私は、よくディーラーの方と交渉ごとが生じます。ここでは、ディーラーがNoと言わざるを得なかった二つの具体例を挙げて、どうして私が納得したかをお話ししましょう。
何年か前の梅雨の頃でした。山道でUターンをしようとして、うっそうと茂った背の高い草の中に捨てられていた農作機にぶつかってしまい、ボディーの修理をお願いすることになりました。問い合わせると、明日引き取りに来てくれて、10日後に届けてくれるというのです。
私は、この梅雨の最中に10日も車がないのはさすがに困る、10日というのは修理工場のスケジュールが混んでいて順番待ちをするに違いない。長いお付き合いなのだから、優先順位をあげてもらえないだろうか、などと考えながら、“なんとか5,6日で完成させていただけませんか?”とお願いしました。
すると、ディーラーは次のように対応しました。「足元が悪い季節に10日も車がないというのは、ご不便でお困りのことと思う。ご迷惑をかけて申し訳ない。確かに、日に夜をついで作業をすれば日数を短縮することは可能だ。けれどもこの日数は、塗装をきれいに仕上げるために、最初の塗装が完全に乾くのを待って2度目の塗装をし、それがまた完全に乾いてから3度目の塗装をする、という工程でかかってくるものだ。梅雨で塗装が乾きにくいことを考えると、いい結果を得るためには、この日数が必要になる。もし、晴天が続き乾燥が早まれば、一日でも早く納車できるよう努力する」という説明でした。これをきいて、私はひどく納得して、10日でお願いすることになりました。
また、別のお話です。何かのメンテナンスで、車をディーラーにもっていくことになりました。メンテナンス中に代車をお願いしていましたが、当日見てみると、それは大型のステーションワゴンで、私には運転できそうにもありません。普通の車をお願いすると、どうしても手配できないというのです。それは困った、とはいえ、どうしようもないだろう、けれどもここからどうやって帰ったものかと思案していると、「期待に添えなくて申し訳ない。急に車がないことになり、さぞお困りだろう、すべての車種を用意できれば一番よいのだけれども、そのコストがお客さまに反映されてはかえってご迷惑なので、今はそうしていない。代車を用意できないかわりに、せめて帰りの足にタクシーを使ってほしい」と、タクシー券を下さいました。それで、どこか救われる気持ちになって、納得したのでした。
では、この二つのケースに含まれる要素を検討してみましょう。
@まず、Noと言われて困ったり、がっかりしているこちらの“状況”と“感情”を口に出して伝えています。最初のケースでは、“足元が悪い季節に10日も車がないというのは”が状況、“ご不便でお困りのことと思う”が感情です。二番目のケースでは、“急に車がないことになり”が状況、“さぞお困りだろう”が感情です。
A次に、Noという理由について説明し、それが自分達の一方的な都合ではなく、そうすることが、こちらにメリットがあると伝えています。最初のケースでは、塗装を美しく仕上げるため、がそれです。二番目のケースでは、コストを低減することで、こちらが支払うメンテナンスの料金を少しでも安くするため、がそれです。
B最後に、Noではあるけれども、これならできる、という代替案を加えています。最初のケースでは、“もし、晴天が続き、乾燥が早まれば、一日でも早く納車できるよう努力する”がそれです。二番目のケースでは、“せめて帰りの足にタクシーを使ってほしい”と、タクシー券を用意したことです。
こういった一見些細な気配りやコミュニケーションが、困った状態にある時に、どれほど助けるになるかは、このケースを体験した私が実感しています。二番目のケースで、数日間代車がないことになる不都合の大きさにくらべて、帰りのタクシー券などは、ほんの小さな穴埋めにすぎないといえばその通りですが、その場の心理としては、ディーラーも、限られた中で精一杯、こちらを気遣ってくれているという思いが伝わり、納得感を引き起こすのです。
Noとだけ言ってもすむところを、さらに相手の立場にたってクリエイティブに考える、そうすると、自分にできるプラスαがでてくるのです。そしてそれを受けて、Noと言われた相手も、この人に対応してもらってよかったと思う、その感動がここで創りだされた新たな価値なのです。不思議でしょう、この二つのケースは、どちらもNoと言われたのに、どこか嬉しくて、何年経っても忘れないのですから。